『美男子と煙草』は、太宰治らしい孤独と葛藤が色濃く描かれた短編です。
社会との対立や、自らの存在意義に悩む主人公が、浮浪者たちとの出会いを通じて見つめ直す”人間の本質”。
善と偽善の境界で揺れ動きながらも、どこかユーモラスな主人公の姿に、私たち自身の姿を重ねてしまうかもしれません。
太宰治が問いかける「本当の自分とは何か?」という深いテーマを、ぜひ一緒に探求してみましょう。
\耳から作品を楽しみたい方は、全編を以下YouTubeで朗読しております/
- 『美男子と煙草』の物語概要とあらすじ
- 『美男子と煙草』のメッセージや考察
- 『太宰治』について
『美男子と煙草』のあらすじと登場人物について
あらすじ
※ネタバレを避けたい方はスキップしましょう!
太宰治の短編小説『美男子と煙草』は、主人公の「私」が社会との孤独な戦いを描いた作品です。
彼は古い価値観や陳腐な考え方に反抗し続け、孤独と戦いながら自分の信念を貫こうとするも、その戦いに疲れ、挫折感を抱き始めています。
孤独感や自己否定の中で下等な酒に手を伸ばし、他人との接触を避けながら、常に自己を見つめ直しています。
ある日、主人公はとある雑誌社の若い記者から「上野の浮浪者を見に行きませんか?」という誘いを受けます。
社会の底辺を覗き見しようとする雑誌社の計画に巻き込まれ、彼は反射的にこの申し出を受けることにします。
記者に連れられた彼は、地下道の浮浪者たちを目にするが、実際には何も見ようとせず、自分自身の苦しさに囚われています。
焼鳥屋の前で煙草を吸っている少年たちに焼鳥を買ってあげるという小さな「善行」をしますが、それが善なのか偽善なのか、心の中で葛藤を抱えます。
主人公は、浮浪者たちの中に美男子が多いことに気づき、自分自身もまた地下道に落ちる可能性があることを感じ取ります。
煙草を吸う浮浪者たちを見て、人はどれほど貧困に落ちても、煙草を手放すことはできないという姿に、自身の姿を重ね合わせます。
浮浪者や少年たちとの出会いを通じて、彼は自分が「美男子」であるがゆえに、地下道生活に陥るリスクを抱えていると冗談めかして話し、笑い飛ばします。
しかし、その冗談の裏には、どれだけ孤独でも自分自身を見失わないとする彼の決意と脆さが垣間見えます。
後日、記者から写真が届けられます。
その写真は、主人公が浮浪児たちの足を掴んでいる奇妙なポーズをしているものでした。
これはキリスト教の足を洗う儀式に似ていると誤解されるかもしれないと主人公は懸念しますが、彼はただ裸足の子供たちの足の裏を確認したかっただけだと説明します。
さらに、写真を妻に見せると、妻は主人公自身を浮浪者と見間違えるというエピソードが加わります。
このやり取りは、主人公の内面的な苦悩や、彼の周囲との距離感、そして人間の滑稽さを浮き彫りにしています。
『美男子と煙草』は、孤独な戦いを続ける「私」の姿を通じて、社会の価値観や人間の本質に鋭い視線を投げかける作品です。
太宰治特有の自己否定と孤独感、そして人間の滑稽さが見事に描かれ、読む者に深い共感と考察を促します。
主な登場人物
- 「私」(主人公)
作家としての孤独や挫折感に苛まれている男性で、太宰治自身を思わせる人物。古い価値観や社会の陳腐さに対抗しようとするが、その戦いに疲れを感じています。
酒に逃げ込み、自己否定と孤独感に悩みながらも、自分の信念を捨てきれずにいます。
浮浪者との交流を通して、自分自身の姿を見つめ直し、社会や自分の在り方について考え続ける人物です。 - 若い記者
雑誌社の記者で、主人公に「上野の浮浪者を見に行きませんか?」と誘いをかける人物。
主人公を連れ出し、社会の底辺にいる浮浪者たちとの「対談」をセッティングする。
どこか冷淡で事務的な態度を取り、主人公の内面に無関心な様子を見せます。 - 浮浪者たち
上野の地下道で暮らしている人々。
作品中ではあまり詳細に描かれませんが、主人公が「美男子」と称する端正な顔立ちの男性たちが多いとされています。
彼らは、主人公にとって自分が落ちていくかもしれない未来の姿を象徴する存在です。 - 少年たち
上野の地下道近くで煙草を吸っている少年たち。
主人公が彼らに焼鳥を買い与えます。
まだ若い彼らは、社会の底辺に落ちていく可能性を秘めた存在として描かれます。
主人公は彼らの姿に対し、一種の憐れみや共感を抱いています。
『美男子と煙草』の重要シーンまとめ
この章では「美男子と煙草」のキーとなるシーンをまとめています。
ある日、主人公は文学者たちに自分の作品を酷評され、内心では強い屈辱と怒りを感じながらもその場では笑って受け流します。
しかし、家に帰り、食事中に感情が溢れ出し、抑えきれずに泣き崩れてしまいます。
若い記者が突然、主人公を「浮浪者を見に行きませんか?」と誘います。
この誘いは、主人公の内面的な葛藤と彼が社会の底辺にいる人々とどのように向き合うかを試されるきっかけとなります。
主人公はこの誘いを受け、地下道へと向かうことになります。
主人公は、地下道で浮浪者たちと対面することになります。
しかし、実際には浮浪者たちをまともに見ることはせず、ただ無言で地下道を通り抜けます。
彼が浮浪者たちの中に「美男子」が多いことに気づく場面は、彼自身がその世界に引き込まれる危機感を象徴しています。
地下道の出口近くで、主人公は焼鳥屋の前で煙草を吸っている少年たちを見つけ、彼らに焼鳥を買ってあげます。
これは一見、善意の行為に見えるが、主人公は自分の行為が善なのか偽善なのか、心の中で葛藤しています。
浮浪者たちを見た後、主人公は記者たちに「地獄ではなかった」と笑い、彼自身の苦しみを淡々と語り始めます。
ここで彼は、自分が「美男子」であることが地下道に堕ちる可能性と関連していると冗談めかして話し、記者たちを笑わせます。
最後のシーンでは、記者が撮影した写真を主人公が妻に見せますが、妻は主人公を浮浪者と見間違えます。
この場面は、主人公が社会的に孤立している現実を痛感する瞬間であり、同時に彼の滑稽さと哀愁を浮き彫りにします。
太宰治は社会との対立や孤独、自己認識の問題、人間の本質に対する問いを描いていますね!
『美男子と煙草』の考察や気づき
「太宰治」が『美男子と煙草』を通して伝えたかったメッセージを、以下のように考察しました。
- 孤独な闘いと社会への反抗
主人公である「私」は、古い価値観や社会の既成概念に対抗しようとしています。
太宰治は、時代遅れの道徳や偽善的な社会規範に対して批判的な視線を持ち、それに対する闘いを描いています。
しかし、その闘いは孤独であり、理解者がいないという厳しさが伴います。
主人公が、周囲からの批判や嘲笑に直面しながらも自らの信念を貫こうとする姿勢は、太宰自身の作家としての姿勢を反映していると考えられます。 - 善と偽善の曖昧さ
作中で、主人公が少年たちに焼鳥を買い与えるシーンは「善行」の一例として描かれていますが、その行為が本当に善なのかどうか、主人公は自問自答します。
この葛藤は、太宰が「善とは何か?」という問いに対して答えを出そうとしている姿勢を示しているかと思います。
善行をすることが他人を傷つける可能性や、自己満足に過ぎないことへの疑問を提起することで、太宰は「本物の善とは何か?」という人間存在の根源的な問題に切り込んでいるのではないでしょうか。 - 自分の弱さや滑稽さを受け入れること
太宰は、自己否定や滑稽さを隠さずに描き出します。
日常生活でも、自分の欠点や弱さを隠すのではなく、それを受け入れることが重要かなと思ってます。
自分の弱さを受け入れることで、他人の弱さにも寛容になりますし、人間関係をよりよくしていきたいです。
太宰治の作品は、人間の脆さと強さの両面を描くことで、私たちに生きることの意味を深く考えさせる力を持っていますすね~
太宰治について
太宰治(本名:津島修治)は、1909年(明治42年)に青森県で生まれ、裕福な地主の家に育ちました。
家族の期待を背負いながらも、彼は幼少期から文学に強い関心を持ち、学生時代には日本の文学界の中心にいた「新思潮派」や「無頼派」と呼ばれる作家たちと交流を深めました。
彼の作風は、自身の生い立ちや精神的な葛藤、そして社会との対立を題材にすることが多く、自己否定と自己愛、孤独感が作品に頻繁に表れます。
太宰の内面的な葛藤と『美男子と煙草』の関連性
太宰は生涯を通じて、激しい内面的な葛藤と戦い続けました。
度重なる自殺未遂や、精神的不安定さ、薬物依存、女性関係の混乱など、彼の人生は常に不安定で揺れ動いていました。
『美男子と煙草』に登場する主人公も、社会との距離感や自分の存在意義についての悩みを抱えており、これは太宰自身の精神状態や人生観と重なります。
主人公が「古いもの」と戦いながらも、社会に迎合しきれない姿勢は、まさに太宰自身の文学的態度を反映しているといえるかもしれません。
太宰治の作品に共通するテーマ
太宰治の作品には、いくつかの共通するテーマがあります。
『美男子と煙草』もそれらのテーマを内包しており、太宰の人生観を理解するための手がかりとなります。
孤独と自己否定:
太宰の作品には、孤独感や自己否定感が常に漂っています。
『美男子と煙草』の主人公も、社会から孤立し、自分の存在意義を見失いかけながらも、自嘲的なユーモアで自らを保とうとする姿が描かれています。
太宰自身も、自分の内面をさらけ出すことで読者と共感を得ようとする一方で、常に自己否定的な視点を持っていました。
社会との対立と反抗:
太宰は、社会の偽善や陳腐な価値観に対して批判的であり、自身の作品でしばしばそれを皮肉ったり、風刺したりします。
『美男子と煙草』での「古いもの」との戦いや、浮浪者との対比を通じて描かれる社会批判は、太宰の作品の特徴です。
彼は社会から外れた存在、あるいは社会の底辺にいる人々への共感を示すことが多く、自分自身を「敗者」として描くことで、現代社会の矛盾を浮き彫りにしようとしました。
偽善と善の曖昧さ:
『美男子と煙草』に描かれる「善行」の曖昧さは、太宰が持つ人間の本質に対する鋭い洞察を示しています。
太宰はしばしば、人間の「善意」や「道徳」がどれほど不確かなものであるかを描きます。
彼は、自分自身の行動や考えを「偽善」として認識しながらも、それを正直に表現することによって、自己を許そうとする試みを続けました。
『美男子と煙草』のあおなみのひとこと感想
『美男子と煙草』は、孤独な戦いと自己否定を通じて人間の本質を描く作品でした。
主人公の社会への反抗や自嘲的なユーモアは、太宰治自身の葛藤を反映しているのかもしれませんね~!
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